高見豊彦医博(1875-1945)


 

相互扶助を説き、奉仕精神を全うした
ニューヨーク日系人社会の慈父

 

高見豊彦氏は、1875年4月4日、時の大名細川公に重用された士族高見惟一と鷹子の長子として熊本県に生まれました。家柄の子弟ばかりが入塾する「戸田塾」に在塾中、塾では禁止されていたにもかかわらず、O.H.ギューリック宣教師が開いていた英語塾に度々出かけ、そこで聞いた新島襄が国禁を犯して日本を脱出、米国で苦学をした話に非常に感動、アメリカへ行く決心をしました。渡米資金を得るために、大阪へ出て働こうと一つ上の従兄弟の次郎とはかり、90年4月、春休みが終わって塾へ帰る日、帰塾すると思っている家族に別れを告げて、大阪へ向かいました。高見氏15歳でした。

 

船便の手違いからほとんど徒歩で、しかし多くの人の好意を受け、6月に大阪に到着しました。大騒ぎになっていた家族を説得、英語や航海術を勉強し、英国船モーガル号の船員として、翌91年3月神戸を出航しました。

 

同年10月マンハッタン島イーストリバー側の埠頭に到着、患難と希望に満ちたアメリカ生活の第一歩を踏み出しました。ブルックリンで学資稼ぎのために米海軍造船所で働きながら、志を胸に英語の勉強を続ける高見氏は、マックレン大佐から生涯の恩人であり「母」であるナンシー・キャンベル女史を紹介されました。以後、女史の下で努力を重ね、コーネル大学医学部を2番の成績で卒業。この在学中、日本人男子の解剖に立ち会った際、番号だけで処理されてしまう現実を目の当たりにし、コロンビア大学学生会で在留邦人に、相互の扶助と親睦、日本人墓地の購入を説く演説をし、協力を訴ました。

 

卒業後、ブルックリンで開業。専ら医療費を払えない人達のために奉仕的な施療を続け、地域のあらゆる人達から絶大な信頼と尊敬を集めました。1907年5月26日日系人会の前身である日本人共済会を設立、12年秋、念願の日本人墓地を購入したほか、18年には日本人信用組合の組織化をするなど、キリスト教の信仰と慈愛を以って、その生涯を社会への奉仕に尽くしました。

45年5月17日ブルックリン本邸で逝去。その死は、半世紀にわたる氏の日系社会への貢献の大きさから、ニューヨーク日系人史の一つのピリオドであったと言えます。40年、勲6等瑞宝章を受章。氏の精神は100年経た今日も日系人会に生きています。

(自叙伝「輝ける星」子息高見正彦編より)